『カーナビが行く手を邪魔をする』秀吉大明神
2015年9月17日 / 寝具のこと, 摂津の神社, 神社・歴史
先日、研修に向かう途中、電話が掛かってきました。
運転中で出られないので国道から外れ、車を停車する場所を探したのが
事のはじまり・・・。(^^;
カーナビにはご丁寧に神社の場所が表示されます。
そこに表示された神社名がよりによって・・・。
『秀吉大明神!(゜o゜;』?
そんな名前が出てきたら無視できないじゃないですか(笑)
仕方なく神社へ向かうことに・・・。名前からしてそこそこの大きさが
ある神社かと思いきや・・・。
とても小さな神社でして、一度通りすぎてしまいました。(^^;
稲荷神社のそばにたわわに実った稲穂。とてもいい絵です。
神社名は 『城の垣内稲荷神社』というらしく元々、ここは
城だったようです。
稲荷神社ですが祀られているのは宇迦之御魂神 ではなく
秀吉だから秀吉大明神と言われてるのでしょうね。不思議なのが
何故、祀られるようになったのかが不明ということ。接点は何か
無いかなと探ってみました。
この城があった丸山城 (ココは出城:中野城)城主山口五郎左衛門は
秀吉の三木攻めで中川清秀、丹羽長秀に攻め滅ぼされたと
有馬郡誌にあります。でもこれじゃ薄いし・・・。
有馬郡というだけあってここは赤松氏系の有馬氏が治めて
いた所でしてWikipediaにはこんな事が書かれています。
庶流にあたる有馬重則は播磨国美嚢郡に進出し、同族の別所氏やその縁戚の淡河氏と対立した。
その子の則頼は豊臣秀吉に従い、後に御伽衆に列した。則頼の子豊氏は豊臣秀次の家老渡瀬繁詮に
仕えていたが、文禄4年(1595年)に繁詮が秀次事件により改易されるとその領地である遠江国横須賀3万石を
引き継いで治めた。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで有馬父子は東軍に与し、その戦功から則頼は一族の
旧領摂津国有馬郡三田藩2万石、豊氏は丹波国福知山藩6万石に封ぜられる。
有馬則頼は秀吉の御伽衆です。信頼も厚かったかと思います。関が原の合戦後も
有馬郡を治めています。有馬郡誌版『山口の伝説』さんのWebでも秀吉大明神がある
三田市上山口は有馬氏が治めていた事が伺え、また秀吉との関係の深さも解ります。
御祭神 秀吉大明神
兵庫県三田市山口町上山口字城ノ垣内1913 城の垣内稲荷神社
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そういえば私も一度、
和田山あたりでカーナビに「温泉」が出てきて、
探し回ったことがあります。
住宅街でとてもそんなものは見当たらず、
狭い道を右往左往しただけでしたが・・・
丹後のヨメさん
まさにそれです!軽自動車なら少々入り組んでても
細くても問題がないのですがミニバンなんかで袋小路に
突っ込んでしまった時には…。そういう目に
しょっちゅうあってます(><)
小さな神社でも大明神の御利益はあるかもしれませんね!
鳥居のしたの草が気になりましたが稲なんですね・・・
思わず草刈スイッチが入りそうになりました(笑)
いげのやまさん
田んぼに囲まれた小さな神社でした(^^)
それがまたいい雰囲気をかもしだしているんですよ~!